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結婚が決まったときの「おめでとう」とは

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結婚が決まってから1か月ほどは、報告のあとにもらう「おめでとう」が、どうもしっくりこなかった。

 

ふってわいたような「結婚」の二文字を、「今の生活が保てるなら」と引き受けたというだけのことで、どんな要素が「おめでとう」なのかがいまいちわからないまま、喜んでもらえているから嬉しいな、くらいの感覚で「ありがとう」を返していた。

 

もちろん私も、誰かの結婚が決まれば「おめでとう」と言ってきた。それは結婚したい人がしているし、「結婚とはめでたいもの」という社会の風潮もあるからなのかもしれない。反射的にお祝いの言葉が出るように体内にセットされている。

 

結婚は本当にめでたいことなのだろうか。めでたくない結婚は、あるのだろうか。

 

夫婦生活が始まると、めでたいことばかりではない。仲たがいを起こして離婚することもあれば、姑との関係に悩まされることもある。幸せになるための家族が、不幸を生み出す可能性だってゼロではない。けれどそんな将来はさておいて、結婚を決めたその時点だけに限れば、もしかしたらその行為はめでたいのかもしれない。

 

私が結婚したパートナーは、その時点では恋人ではなかった。およそ3年付き合って、10年ほど前に別れてからは、ずっと仲良しの友達として過ごしてきた。毎日のように電話をしたり、南米をはじめとした各国、各地へ旅行したり。社会人になってから会う頻度は年に1~2回程度ではあったが、いくつもの経験の中で「この人なら大丈夫」と、ずっと一緒にいることを考えてもいた。

 

ただ、ずっと一緒にいるための選択が「結婚」じゃなくてもいいよなとも思っていた。お互いが一生一緒にいられると思い、生涯を通じて信用できる人だと言えているのだから、わざわざ結婚しなくてもいい。とくに形式は意味をもたなかったのだ。

 

結婚に強い希望を感じなかったのは、家族のこともあると思う。もともと仲の良い家庭ではなかったから、自分が“良い家庭”“いい夫婦”でいられることはできないと思っていた。結婚して関係を悪化させるくらいなら、このままでも十分。もちろんパートナーにもそんな話をしていたけれど、「それでも結婚したい」との提案を受け、相手が望むなら、とその選択肢を取ることにした。

 

私にとって結婚は、「一緒にいるための居心地のよい言い訳」くらいにしか考えていなかった。だから、「おめでとう」の言葉に小さな違和感があったのかもしれない。むしろ私から相手に「おめでとう。よかったね」と言ったくらい、なんだか他人事で、良い意味で本当にどっちでもよかったのだ。

 

大切な人と家族になること。その時点だけ見れば、たぶん「おめでとう」が適当なのだろう。ただ、家族の形は結婚だけじゃない。たぶん私とパートナーは、「この人なら大丈夫」とお互いが思ったときに、家族になっていたのではないかと思う。それが、「結婚」というわかりやすい形で名づけられただけのこと。だからタイミング的に、なんだかしっくりこなかったのかもしれない。

 

とはいえ言われれば嬉しいし、なにより「おめでとう」と喜んでくれる人を見れることが幸せだなと思う。自分が結婚するっていうだけで、こんなに周りが喜んでくれるのかと思うと、結婚を決めてよかったなと思えた。違和感が薄れていってから、ようやくいろいろな人に結婚の話をすることができた。そして、今書いていて思う。

 

「おめでとう」と言われたら、両親や、相手のご家族、そしてパートナーを思い浮かべよう。彼らに向かって「おめでとう」と言われているのだと思えば、結構嬉しいかもしれない。報告のときにボロボロと涙をこぼす両家や、オープンなパートナーの家族、いつもと違ったお正月を過ごして、そんなことを考えた。